ぼちぼち生きる――語り直しと小さな変化の力

 

「ぼちぼち」と小さな変化の力

臨床の場に来られる方の中には、「一刻も早く不安から解放されたい」「できることがあるなら今すぐ教えてほしい」と切実に訴える人が少なくありません。焦りのあまり「そんなのんびりと“ぼちぼち”なんて言っていられない」と感じるのは自然なことです。苦しいとき、人はどうしても即効薬を探してしまいます。

しかし皮肉なことに、その焦りにとらわれている限り、楽になりにくいという逆説があります。なぜなら変化や回復は「意志でつかみ取る」ものではなく、むしろ「ふとした瞬間に小さく訪れる」ことが多いからです。長い無気力の中で、ある日ふと「新しく自分にしっくりくることを始めてみようかな」と思えたり、「人とのつながりを過剰に求めなくてもいい」と感じられたりする。

そうした小さな変化は即効性こそないものの、確かに本人を支える力となります。 しかもこれらの変化は、当初は本人も気づかず、後から振り返って「そういえばあれが変化だった」と逆説的に理解されることが多いのです。

「ぼちぼち」という言葉はスローガンではなく、時間をかけて語られる物語の中に静かに立ち現れる手触りだと言えるでしょう。

語り直しが変化をゆるす――エンパワメントとナラティブの視点

こうした小さな変化を支える概念として、私はエンパワメントを基盤に置いています。エンパワメントとは「力を与える」のではなく、「本人がもともと持っていた力に気づき、再び自ら選択できるように支える」考え方です。セラピストの役割は解決を押し付けることではなく、クライエントが自分の語りを通じて力を取り戻すのを支えることにあります。

ナラティブセラピーの立場から見ると、人はしばしば支配的な物語(ドミナント・ストーリー)の中で自分を語ります。たとえば「私は弱い人間だ」「何をやってもうまくいかない」といった語りは、文化的・社会的に形作られた強い枠組みに支配されがちです(White & Epston, 1990)。

しかしその物語だけが人生を定義するわけではありません。セラピーでは、そうした支配的な物語に覆い隠されてしまった「例外」を探します。ほんの小さな成功体験や、苦しみの最中にふと笑えた瞬間なども、より肯定的で希望のある代替の物語(オルタナティブ・ストーリー)を紡ぐ手掛かりになります。この例外をつなぎ合わせていく作業こそが語り直し(re-storying)であり、クライエントの自己像を豊かに拡張するプロセスなのです(White, 2007)。

語り直しの力を考えるうえで、中井久夫の『徴候・記憶・外傷』(2004)は示唆に富みます。中井はこう述べています。

「外傷性記憶は、そうした文脈(索引のネットワーク)に組みこまれない異物だから、苦痛のもとになる。したがって、つらい記憶を自己史という索引のネットワークに組みこんでやることができれば、病は軽くなる。」

さらに中井は「語るたびに話は変化するる」と表現しました。繰り返し語られることで、ぎこちなくごつごつした記憶が少しずつ柔らかくなり、扱いやすいものに変わっていくのです。

「索引の多さはその人の生の豊かさと関連する」

人は語れば語るほど、欠損していた記憶を埋め合わせ、散らばった断片を索引に組み込みます。その結果として物語は変化し、これまでとは違う意味を帯びて語られるようになる。これはまさに、ドミナントな物語からオルタナティブな物語へと開かれる語り直しのプロセスに重なります。

笑いと「徴候」としての物語の再構成

小さな変化を支えるもう一つの要素が「笑い」です。臨床の場では、深刻な語りの最中にふと笑いがこぼれることがあります。その笑いは苦しみを打ち消すものではなく、「苦しみと笑いが同居できる」という安心の体験をもたらします。焦燥と不安に閉じ込められているときでも、笑いは「別の調子」を取り戻す小さな兆しになります。

ナラティブ心理学の研究によれば(McAdams, 2001)、人は自分の人生を物語として統合し、その物語に「主体性(agency)」や「再生(redemption)」が含まれるほど心理的ウェルビーイングが高まるとされています。小さな笑いや予期せぬユーモアも、ナラティブセラピーのいう「例外」として物語に組み込まれることで、主体性と再生を強めます。

中井のいう「徴候」という概念もここに重なります。徴候とは、病や苦しみのただ中に現れる小さな兆しのことです。笑いもまた一つの徴候であり、それを丁寧に聴き取り、物語に組み入れることで、クライエントが新しい語りを紡ぐ助けになります。

おわりに

患者の焦りや「早く楽になりたい」という訴えは切実であり、それを否定することはできません。しかし、その焦りにとらわれ続ける限り、苦しみは和らぎにくいのも事実です。

大切なのは、「魔法のような解決はない」ことを前提にしながらも、ぼちぼちと語られる小さな変化に耳を澄ますことです。 語れば語るほど、欠損していた記憶は埋められ、断片は物語に組み込まれていきます。中井久夫の言葉を借りれば、それは「語るたびに変化する」プロセスでもあります。

ふとした笑い、ささやかな新しい試み、他者との距離の取り方。そうした小さな変化こそが、ドミナントな物語に風穴を開け、オルタナティブな語り直しを可能にするのです。

そしてそれこそが、ぼちぼちと生きる力になるのだと思います。

参考文献

White, M. & Epston, D. (1990). Narrative Means to Therapeutic Ends. New York: Norton.

White, M. (2007). Maps of Narrative Practice. New York: Norton.

McAdams, D. P. (2001). The psychology of life stories. Review of General Psychology, 5(2), 100–122.

中井久夫 (2004). 『徴候・記憶・外傷』みすず書房.

 

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2025年08月29日