「恥をかかさない」ことについて

 

引きこもりの事件のニュース報道が大々的に行われたおかげで、連日、引きこもりについて注目が集まっています。支援の文脈で、というならまだいいのですが、社会的文脈、特に自己石印論に基づく、「本人の努力不足」とか「我慢が足りない」「社会不適合者」とラベリングしそのうえで、存在価値がないとまで糾弾される。そうして彼らはますます居所をなくして、引きこもる、ということがしばしば起こっているのではないかと思います。

行動は必然を伴う

 彼らの多くは、学校や職場において社会的に排除され、居場所を失い、社会から撤退せざるを得ず、楽しむ力を失い日々を無為に生きていることが多いようです。家族もまた、同接していいかわからず、腫れ物に触るようにした結果、ある種の排除的関係に陥ってしまい、孤立→暴力が生まれるようなこともあるかもしれません。ひきこもりの著作でよく知られる、精神科医の斎藤環は、相手の話を遮ることなく、価値判断や助言を控えて、じっくりと話を聞くことの重要性を説いています。聞き手が不安に耐えかねて、「話を聞けない」ことに彼らは怒りを感じるとともに、こんな自分は誰にも受け入れられないのかと、強い惨めな思いをすることで、攻撃が生まれるのかもしれません。

コミュニケーションの病理

ひきこもりの方のご家族のご相談を受けていて、しばしば感じることですが、コミュニケーションにおいて、裏腹なメッセージを届ける方が多くおられるように感じます。怖いのに、怖くない、とか、心配したくないのに、心配しているとか。不安なのに、不安でないとか、自分が不安なのに、不安を相手の問題にしてしまうとか(あなたのこの先が心配だ、というような)。ひきこもりさえ治れば、あとは良くなるとか、まあいろいろあって、多いのが、自分の不安と、子供の不安を分けて感じられえていないことが多い。子供は、大丈夫と言われても、親は大丈夫と思ってないし、真人間に、あるいは普通になれと思っているのだろうというメッセージを受け取り、それができない自分に直面して惨めな思いを抱く。

 こういうプロセスを考えながら、ひきこもりの病理って、アルコール依存の問題と似たところがあるんじゃないかと思うようになりました。アルコールに限らず依存症一般に言えることで、それに耽溺しても一つも面白くない、味わえない病理。酒も、セックスも、ひきこもりも。ひきこもりは居場所を巡る問題ですが、それを楽しむ達人がそうそういないことを考えれば、うまくもない酒を飲み続けなくてはいけないほどのみじめさを抱えているということも言えるのではないか。そこでしばしば生じる家族緊張は、依存を巡る問題とよく似ていることに気づかされます。


家族にできること

こうした依存を巡る問題に対して家族ができることについて、中井久夫がアルコール患者及び家族との治療について書いていること(中井久夫「世に棲む患者」筑摩書房)が役に立つのではないかと感じています。
 少し引用しながら続けます。中井は、しばしば「アルコール患者は家族から見放され、友人もなく、趣味もなく、野球や相撲に贔屓のチームや力士があるわけでもなく、酒の種類や銘柄はお構いなしで、ひたすら麻痺や意識混濁を目指す」、つまり孤独を打ち消すための無味乾燥な酒なのだと。これに対して、北九州の碇先生が、病院総出で「楽しい酒を飲む」宴会療法をやったのは一定の挑戦であったと思うと書いています。星の王子さまの「アル中の星」で、彼が王子様に「恥ずかしい、恥ずかしい、私はアル中であることが恥ずかしいのです」といってぐいと一杯煽る場面を取り上げながら、どの国においても、依存症は恥の文化であり、やはり孤独の病理でもあるのだと。この時患者は誰からも理解されず、家族からも切り離されたみじめな気持を味わっているのだろうと思われます。
そこで中井は治療に訪れた家族に向かって言います。治療を受けるにあたって、「簡単だが実行はなかなか難しいことを一つ守ってくれますか」と。そして、まず「恥をかかさないこと」をお願いするのだといいます。「むろん酒飲みへのいろんな説教は恥をかかせる」ばかりであって、それで治っていれば「ここ(病院)まで来ていない」のだから、武士の情けが必要だと。

過ぎたるは猶及ばざるが如し

「恥をかかせる」コミュニケーションの最たるものに、去勢的なコミュニケーションがあるでしょう。どうせできないとか、また〇〇をしてとか。あるいは一時場爾と大騒ぎをして本人に恥を植え付けてしまうとか、過去にさかのぼって責立てるとかがそうですね。そもそも、本人とって驚きのあるような問いかけでないと、響くことはないわけです。もう耳にタコができるくらい言われているし、自分でも自分に散々言っているから。同じ轍を踏めば踏むほどうんざりするのが人情です。
 その一方で、「酒を止めてえらいね」という言葉でも、「どうせ俺はそれくらいしか褒められることのないやつさ」と僻む気持ちが出るのが人情だし、聞き飽きた説教は同じ穴に何度も針を打つようなもので、だんだん強くしないと効果も出ないし、反作用も大きくなる。だいたいひきこもりの人は引きこもるのが苦手なので、やめられないのだろうと思うのですから、常に恥の感覚にまみれていると言っていい。これを先回りしたところで、恥の上塗りになるだけです。結局、本人のしたことの価値はしたことの価値として認め、七転び八起きで行くしかないと中井は言います。このときに手がかりになるのがユーモアの感覚であることが多いのは私も感じることで、好きなもの、贔屓なもの、お金を使いたい対象など主体的に関われる物が多いほど、本人の自己は支えられやすいといっていいと思うのですね。こういう自己の生きている領域とどれだけうまくやっていけるかが、周囲の支援を考えていく上で重要ということなるのです。

これだけすればよいというものではないのでしょうが、アルコールの問題もひきこもりの問題も、孤立、余白のなさ、恥を忘れるための行動、去勢的コミュニケーションなどの点で似通った特徴を持っているようです。改めて、本人の資源や、家族間のコミュニケーションについて目を向けてみることは大切なことではないでしょうか。コミュニケーションが、結果的に家族の地位を作ってしまい、それが再生産されて、家族の力関係が定着してしまうこともありますし、逆に、思いもよらない発見があることもあるかもしれません。

一度、振り返ってみるだけでも、意外なものが見つかることもあるかもしれませんよ。

「追記」
 書き出してみたものの、アルコールの問題と家庭内暴力の問題の相似形について中井先生自身がすでに指摘をしておいででした(この章を読むたびに、「あ、もう書いてあった!」と思うので、自分も大概ですが)。この記事はもうすでに何番煎じかになっているのでしょうが、今でも有効な視点だと私は考えています。

 

【文献】中井久夫(2011) 世に棲む患者 中井久夫コレクション 1巻

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2019年07月01日